1962.3.27
ワールド・シアター・デイ メッセージ


ジャン・コクトー
芥川比呂志 訳

 時の流れとともに変貌する歴史、時の流れとともに定着する伝説、この二つは、舞台の上に、それらの真の現実を発見する。こういう逆説が成り立つのは、演劇の特権によってであります。

 観客に、すぐれた芝居を見たと思わせたいなら、バラモン教の托鉢僧を招いて劇場に催眠術をかけてもらうのが、いちばん手っとり早いにちがいありません。が、残念ながら、そんな托鉢僧は存在しないので、もっと地味な方法で、集団的な催眠を起こさせ、その夢を頒ち与えるのは、他ならぬ劇作家であります。眠りと、夢とは、すべての胎児に一種の精霊を授けるものだからです。演劇もこの現象に倣って、観客に、殆ど子どものような素直さを求めるものです。最良の観客は今でも人形芝居のそれであり、私たちの観客も、誇り高き抵抗を捨てて、たとえば、エディプス王に向かって「ヨカステと結婚するな、そいつはお前のおっ母さんだ」と思わず声をかける程になれば、理想的なのです。

 そこまで行かなくても、この現象は現に起っているので、観客全体が、一様に不思議な感銘をうけて我を忘れ、またそれに協力していることがよくあります。この一群の観客は、子どものような魂を持った一人の人間になって、彼らのさまざまな信念を、劇場を出る時までクロークに預けておくのです。

 真に賛美すべきことは、共通の思想にめぐりあうことにあるのではありません。むしろ、私たちの思想とは異質の思想を受け取ること、しかも、そこにおいて私たちが作者になり得たかのように感じることにあるのです。

 従ってこれは愛の一形式であると言えましょう。愛においては、敵対意識は消え去ります。演劇の役割は、この浸透力のよい実例ではありますまいか。偉大な俳優とは、原作の戯曲を、即興で、自分なりに、作り出しつつあるかのような印象をあたえる芸術家のことだからです。

 個人主義のために、ともすれば芝居の催眠現象に反抗し、容易なことでは眠りたがらないフランス、そのフランスでさえ、国際演劇祭において、そういう飢えや渇きが、いささかも軽佻浮薄な手段を用いずに、いやされることを知ったのであります。

 第一級の劇団が、さまざまな言葉によって書かれた傑作を持ち寄り、ひたすら演劇の高さによって、今まで自分たちの固有の言葉、固有の演目に固執して、他の民族のことに関心を示す余裕がないものと思われていた観客を、それぞれのレパートリーによって魅了したのです。

 世界演劇日はこのような国際結婚の深い意義に注目し、単数であれ複数であれ、主観であれ客観であれ、意識であれ無意識であれ、その結果として生まれでる玄妙不可思議な怪物どもをお目にかけようというのです。

 心の距り、言葉の壁から生ずる多くの誤解は、演劇という広大な装置によって克服されるでしょう。

 世界演劇日を通じて、人々は、それぞれの富を認識し、平和のための崇高な企てに協力することになるでしょう。
 
 ニーチェは言いました、「世界の顔を変えるような思想はいつも鳩の足につかまれてやってくる。」と。事によると、これまで兎角、人を喜ばせる口実としてだけ使われがちだった方法こそ、青年たちに輝かしい生きた学問と骨肉を備へた対話との恩恵をあたえる方法となるかも知れないのです。今日では教室的研究から来る歪みが傑作の本来の烈しさを失わせ、弱めているからです。

 終わりに附け加えておきます。機械仕掛けは演劇に恩恵をもたらしたように見えます。が、私はそんなことは全く信じておりません。そして国際演劇協会の菜において口火を切ることを依頼された私は、昔、人々が歴代の王に向かって呼びかけたように(しかし、すこし言い方を変えて)こう申しましょう、「たとえ滅びようとも、演劇よ、万歳!」と。