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堀内元さんレクチャー『次代へのメッセージ~バレエで世界をつなぐ~』抄録 1/3


吉岩 なぜ数ある留学先の中で、ニューヨークを選んだのですか?
堀内 父(堀内完)の影響だと思います。文化庁の在外研修員(2期生)としてニューヨークへ行った父は、日本に帰るととにかく「ニューヨーク・シティ・バレエ! ニューヨーク・シティ・バレエ!」(笑)。あとはジョージ・バランシンとジェローム・ロビンス。そしてミュージカルです。父は劇場で、こっそりミュージカルを録音してきて(笑)聞かせてくれたんです。正直なところ、どこへ留学したいか、バレエをやるならどこがいいのかというのはわからなかったのですが、幼いころから、父がこんなふうに情熱をこめて話す姿を見て育ったので、機会があればニューヨークだと思っていたんですね。

吉岩 ニューヨークを選んで正解でしたか?
堀内 正解でした。ぼくが留学したのは1980年ですが、世界各国からいろんなひとが集まってきていましたから。ぼくのクラスだけでも、フランスにイランにエジプト……中国から来ている子もいました。すごく刺激になりましたね。

吉岩 留学後にニューヨークに残ったのは、どうしてですか?
堀内 バレエ学校は「各種学校」にあたるので、卒業がないんです。だからぼくはSABバレエ学校(※)のほかに、向こうの高校にも通っていました。

 当時、ぼくは16歳だったんですけど、だいたいバレエ団に入るのって18歳か19歳でしょう。あと一年残りたいと思いましたが、ローザンヌのスカラシップ賞は、一年間の奨学金なんです。当時通っていた高校に「あと一年残らせてほしい」って頼んだら、校長先生から「きみは日本に帰りなさい。ローザンヌ賞をとって有名なんだから、日本で踊ればいい」と言われてしまいました。あんまり英語が話せないなりに「ぼくはニューヨークで踊りたい」と演説をぶったつもりが、にべもなく「NO」と(笑)。

 がっかりして、もうだめだな、と思っていました。バレエ学校での最後の定期公演で踊ったあとのことはあまり考えていませんでした。ところが、この定期公演を、当時ニューヨーク・シティ・バレエの芸術監督だったジョージ・バランシンが観ていたんですね。それで「この子、面白いから残せ!」と言ってくれたんですよ。それで、ぼくは残れたんです。
奨学金はSABバレエ学校からもらいました。ローザンヌからじゃなくて。それで残ることができた。ここでバランシン先生にみてもらって、これでニューヨーク・シティ・バレエへの入団が決まりました。

※SABバレエ学校(スクール・オブ・アメリカン・バレエ):ジョージ・バランシンが1934年に作ったバレエ学校であり、ニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)のダンサーのほとんどがこのアメリカ随一の名門校の卒業生。卒業生にジュリー・ケント、イーサン・スティーフェルらアメリカン・バレエ・シアター(ABT)のプリンシパル、日本人では堀内元氏のほか、堀内充氏、小林十市氏(元ベジャール・バレエ・ローザンヌ)、中村かおり氏(パシフィック・ノースウエスト・バレエ)らなどがいる。

吉岩 バレエ学校の奨学金というのは、生活できるくらい出るんですか?
堀内 当時、いまの日本円にして一か月に7~8万円は出ました。もちろん、授業料免除で。

吉岩 日本人だから苦労したこととか、逆に、日本人でよかったことはありますか?
堀内 正直言って、よかったことはないですね。とにかく、体力というか体格の違いがある。バレエっていうのは自分ひとりで踊るものじゃなくて、やっぱりグループで一緒に踊るものでしょう? それに、女性を持ち上げたり、いっしょに踊ったりもする。だから、まず、体格がみんなと並ぶくらい大きくなくちゃいけないし、女性を持ち上げるのにもすごくパワーがいるんです。だけど、入団したとき、ぼくはいちばん背が低くて、いちばん細くて、自分よりも背が低い女の子っていうのがたぶん、100人の団員のなかで2人くらい(笑)。

 それで、「何が僕にとっての武器なのか」って考えました。ひとりで踊ったときに、だれにも負けない力強さとか正確なテクニックを身につけようと思いましたね。それでずっとやってきました。だから、日本人としてよかったというのはなにひとつありません。性格的に「こつこつと努力を重ねる」という面、これは日本人的かな、という気はします。とにかく練習は毎日欠かさずやりましたけど、これが入団につながったかどうかはわかりません。

吉岩 アメリカのバレエの特徴はありますか?
堀内 アメリカのバレエの歴史って、けっこう浅いんです。商業バレエとして成り立った最初のバレエ団が60年くらい前にできたニューヨーク・シティ・バレエですから。ビジネスとして成り立たせようというのがアメリカのバレエ・ダンス界だと思います。

 お客様に喜ばれる作品をつくることによって、みんなが劇場に足を運んでくれて、チケットを買う。もちろん、援助金やスポンサーからの資金もありますが、基本的にはチケットの売上で運営するというのが、アメリカのバレエですね。

 しかも、そのなかからバレエダンサーにもお金を払い、演出家にもお金を払い、そして、毎年、何十回も公演をやる。そのうえで作品をつくる。だから、お客さまのニーズを考えた作品づくりというのはとても大切だと思います。

 ジョージ・バランシンはロシア人でしたけれども、手がけた作品は Western Symphonyみたいな、ウェスタンとかカウボーイとかが出てくるものだったり、『星条旗よ、永遠なれStars and Stripes』みたいに星条旗が出てきてみんなで踊るような作品だったり。それからシェイクスピアの『夏の夜の夢』もあります。アメリカ人のお客さんが面白いと思うような作品を、ロシア人のバランシンがつくったんです。
 彼なら、当時のキーロフやボリショイ・バレエのことをやってもよかったはずなのに、そういうことをあえて選ばず、劇場に合った作品をつくった。これが成功の理由だと思います。

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