2017.4.29
インターナショナル・ダンス・デイ メッセージ


 
2017年:トリシャ・ブラウン(ダンサー、振付家、トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー芸術監督/アメリカ)

©Bart Michiels

©Bart Michiels

ダンサーになったのは、飛びたいという思いのためでした。重力を乗り越えることが、いつも私を突き動かしてきました。私のダンス作品には、何も隠れた意味などありません。それらの作品は、身体的な形式をとった精神的な実践なのです。

ダンスはコミュニケーションであり、コミュニケーションの普遍的な言語を拡張して、喜びや美を生み出し、人間の知識を発展させていきます。ダンスは創造性に関わるもので、繰り返し、繰り返し、考えること、作ること、実践すること、そして上演することの中に、その創造性は現れるのです。私たちの身体は表現するための道具であり、再現するためのメディアではありません。このような考えが、私たちの創造性を解き放ち、このことこそ、アートを作ることの本質的な教えであり、贈り物なのです。

一芸術家の人生は、一部の批評家が信じるように、年齢のために終わることはありません。ダンスは人々から、人々とアイデアから作られているのです。一人の観客として、あなたはその創造的刺激を家に持ち帰って、それを日々の生活に応用できるのです。

*このメッセージは、世界中のダンスに携わる人とダンスを愛する人に向けられたもので、2017年3月18日に逝去したトリシャ・ブラウンへの追悼として公開されています。このメッセージは、トリシャ・ブラウンの著作とステートメントから、彼女のコラボレーターであり、気心の知れたスーザン・ローゼンバーグによってまとめ直されたもので、作品やそれを反映した価値観についてのトリシャ・ブラウンの見解を示しています。

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Trisha Brown

 トリシャ・ブラウン(芸術監督、振付家)はワシントン州アバディーンに生まれ育つ。1958年にカリフォルニア州ミルズ・カレッジを卒業し、61年ニューヨークに移り住むとすぐ、後にポストモダンダンスの先駆けと評されるジャドソン・ダンス・シアター(Judson Dance Theatre)での活動に没頭していった。ブラウンが、日常的なものの中に特別なものを見出すための、動きの探究に磨きをかけたのは、ここでであった。パフォーマンスの既存の知覚に挑戦することで、ブラウンは同志のアーティストたちと共に、振付の限界を押し広げ、以後のモダンダンスを変えてしまった。

 1970年にブラウンは自らのカンパニーを設立し、「Man Walking Down the Side of a Building(建物の側面を歩いて降りる人)」(1970年)や「Roof Piece(屋上の作品)」(1971年)など、自分を取巻く環境にインスピレーションを得た作品を作り始めた。ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)とのコラボレーションを始めたのもほぼこの頃のことであった。1980年代には、多くの革新的な作品を創作した。その中には、今や代表作とされるローリー・アンダーソン(Laurie Anderson)のオリジナル音楽とラウシェンバーグの舞台美術を用いた「Set and Reset(セット・アンド・リセット)」 (1983年)がある。この作品は、ブラウンによって完成された初めての連作「Unstable Molecular Structure (不安定分子構造)」の最後を締めくくった。

 この作品はブラウン作品の特徴である、流動的かつ予測不可能な幾何学的様式を端的に示していた。ブラウンはその後、ひたすら運動競技的な「Valiant Series(徹底的に闘うシリーズ)」に取り掛かり、ダンサーたちを身体的な限界に追いこんでジェンダーそれぞれに特有の動きを探求した。次に、優雅で神秘的な「Back to Zero Cycle(ゼロへの回帰サイクル)」でブラウンは、外から見える超絶技巧から手を引き、無意識の動きを探求した。ラウシェンバーグとの最後のコラボレーションになった作品「If you couldn’t see me(もしもあなたが私を見ることが出来なかったら)」(1994年)では、ブラウンは観客にひたすら背中を向けて踊った。

 自身を新しく作り直し、実験することに常に熱心だったブラウンはクラシック音楽とオペラ作品に関心を向けるようになる。いわゆる「Music Cycle(音楽サイクル)」の始まりである。J.S.バッハの記念碑的な作品「Musical Offering (音楽の捧げもの)」を振付けた 「M.O.」(1995年)は、ニューヨーク・タイムズ紙のアンナ・キセルゴフ(Anna Kisselgoff)に傑作であると絶賛された。このことによって彼女はオペラ制作により一層打ち込むようになり、数え切れないほどたくさんの上質なオペラ作品の振付と演出に携わり始めた。

 新しい分野に挑み続けながら、ブラウンは新しいテクノロジーといった関連トピックの探求にも手をかけ、日本人アーティストでロボット工学デザイナーでもある岡﨑乾二郎と共に、ウィットに富みかつ洗練された作品「I love my robots(わたしはロボットがすき)」(2007年)を制作した。ブラウンの最後の作品「I’m going to toss my arms- if you catch them they’re yours (私の両腕を放り投げるから、もしつかまえたら、あなたのもの)」(2011年)は、ビジュアルアーティストのバート・バー(Burt Barr)とのコラボレーションで、産業用送風機で埋め尽くされた印象的な舞台装置であった。

 多作の振付家でありながら、ブラウンは熟練したビジュアルアーティストでもあり、それは「It’s a Draw(描く)」(2002年)で示されていた。彼女の絵画作品は世界中の展覧会やギャラリー、美術館で展示されている。

 ブラウンは1961年以来100以上のダンス作品を作っており、誰もが憧れるマッカーサー財団フェローシップの「天才賞」を受けた初の女性振付家である。それ以外にも、全米芸術基金からの助成を5度受けるなど、多くの受賞歴を持つ。88年にはフランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受け、最終的にはコマンドゥールまで昇級した。また、ビル・クリントン大統領の招きを受けて94年から97年まで全米アーツカウンシルの活動に寄与し、2003年には全米芸術勲章を受けた。数多くの名誉博士号を受け、アメリカ文学芸術アカデミーの名誉会員を務め、2011年には「世界の美と人類の喜び、そして生の理解への傑出した貢献」したとして、栄えあるドロシー・アンド・リリアン・ギッシュ賞を授与された。

 トリシャ・ブラウンは長い闘病の末、2017年3月18日に逝去した。この時代において最も賞賛され、影響力のある振付家・ダンサーの一人であるトリシャの先駆的な仕事は、芸術の状況を一変させた。彼女の死は、ダンスと舞台芸術における、大きな喪失である。

翻訳:中島那奈子