痛みを理解するための「想像力」
永井 『この子たちの夏』は1985年からほぼ毎年上演されてきました。2011年からは国際演劇協会が主催に加わらせていただいて、今回で5回目になります。
今年は敗戦から71年、原爆を知らない世代が圧倒的に多くなり、ジャーナリストの立花隆さんがおっしゃるように、いつか「この方が最後の被爆者です」という日が来ます。これから広島・長崎を語り伝えていくことについて、どのようにお考えでしょうか。
湯川 私は「想像力」しかないと思っています。私が名誉学校長を務める音楽専門学校では『明日への扉』という白血病の少女が主人公のミュージカルを毎年上演しているのですが、骨髄移植のドネイターを増やすことを目的に25年ほどやってきて、やっと目標値に達してきました。
若い子供たちにとって白血病は遠い世界のことです。でも、想像力をちょっと刺激して火をつけてあげれば、だれもがわかる世界なんですね。原爆でこれだけの命が奪われたということを伝えるのも、「どう想像力に訴えかけるか」じゃないかと思います。自分の痛みも含めて、人の痛み、悲しみ、流す涙はみんな同じ色だということに思い至れるかどう[tかが
基本にある気がしますね。
堂園 逆に私が心配なのは、痛みを感じる感性すらも少しずつ薄れているのではないかということです。現実とヴァーチャルの境界がわからなくなっていて、「痛みという言葉」と「痛みという現実」が結びついていないんじゃないか。それをなんとかしなければいけないと思いますね。
湯川 そうですね。そこが一番深いのかもしれませんね。SNSでメッセージを発信していると賛同のご意見もたくさんいただきますが、反発もある。そういう人たちと会話をしていると、学校での歴史教育が明治維新くらいで終わってしまうせいなのか、その後の歴史を冷静に語れないんですね。「日本だってあそこで何十万人殺した」「いや、そんなに死んでいない」って……
堂園 数の問題ではないんですよね。
湯川 そう、違うんですよねえ。なぜ人は殺し合いを止められないのか。学校教育も大切ですが、現実を生きるなかでの親子の関係、社会での人とのつながり、人間が人間として生きることの意味など、もっと深いところまで戻っていかないといけない。そして、なぜ戦うのか、なぜ憎しみが生まれ、残ってしまうのかを必死になって考えながら生きていかなければならないと思うんです。
永井 「戦争」というのは抽象的な二文字ですが、実際に人を「殺す」んですよね。原爆もそうですが、最近ではドローンを使ってボタンひとつで人を殺せるようになって、「殺す」ということが身に染みない、言葉が肉体化されていないと感じます。
湯川 そう、そして、その後ろにあるのはやはり経済問題です。いま全世界の1%ほどの最富裕層が世界の半分の資産を保有していて、莫大なお金の取り引きがコンピューター上だけで行われています。実は戦争もそういった経済のグローバル化の流れに利用されているんですよね。そこには痛みもかゆみもない。
堂園 「殺す」ということは、「人の命がなくなる」ということで、その人がこの世の中から永遠にいなくなるということなのに、その方程式がわからなくなってしまっているんですね。
湯川 湾岸戦争のとき、テレビでは毎晩ゲームのようにピンポイント爆撃の様子が流れました。それを見ていた10歳の子どもたちがいま30歳です。私が「戦争はあってはならない。万一、日本に攻めてきたとしても防ぎようがない」とSNSで発信したりすると、滅茶苦茶に叩かれます。「何を言ってるんだ、もうお前が知ってるような戦争の時代じゃない。敵の規模も一瞬にしてわかるし、こういうふうに掃討すれば……」って、反論の仕方がまるでゲーム感覚なんです。
永井 目立たないのが一番平和という方向に流れがちですが、その反論に一つひとつ答えていらっしゃるんですね。
湯川 はい。これは私の「終活」だと思ってるんです。言い続けるしかないって。少しでも若い人に届けたい、どうやったら届くのか……という思いがすごくありますね。
敵味方を超えて現実を伝える
堂園 朗読を拝聴していて、「~と申しました」とか、昔はなんていい日本語を親子で使っていたんでしょうと思いました。原点を感じましたね。古いというのではなくて、正しい、美しい日本語でした。
湯川 昔は子どもがいきいきと外で遊んでいましたね。お台所からトントンって料理する音が聞こえてきて、「ごはんよ」って言われるまでうちへ帰らなかった。近頃は子どもの遊ぶ声が聞こえないんです。お隣のうちに遊びに行くこともなくなって、時間、空間をいっしょに過ごしてないですよね。子どもと母親の会話も違ってきているんだろうと思います。
堂園 そうですね。それから、医師として今日の舞台を観ていて、十分なものではないにしても、原爆投下から2、3日後には治療する環境ができていたということに大変驚き、すごいことだと感動致しました。
湯川 私が今日、舞台を拝見して改めてショックだったのは、被害を受けるのはみんな、お年寄りやお母さん、無抵抗な子どもたちだったということです。男の人の嘆きや怒りの声はどこにもない。もちろん男性は兵隊にとられて不在の場所で起きたことですが、極端に言えば、爆弾を落としたのも皆男性だったとも言えるかもしれませんね。
永井 お父さんやお兄さんは、戦場で殺し合いをさせられているということですね。『この子たちの夏』は、被害を受けた方の立場、小さな子どもを亡くしたお母さんたちの悲しみがテーマになっていますが、「戦争」について考えるとき、害を加えた方の立場も考えなければいけない段階にきているのではないかとも思います。
栗原貞子さんという詩人がこういう詩を書いていらっしゃいます。
〈ヒロシマ〉というとき 〈ああ ヒロシマ〉と やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば 血と炎のこだまが 返って来るのだ……(略)……
〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが かえって来るためには
わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない
この詩は各国で翻訳されていて、昨年は韓国で翻訳されたそうです。戦争というものは原始以来あるけれども、それを一切なくしていかなければいけない、そのためのメッセージを発していかなければいけない。そういう意味で、これからは被害だけではなく、加害ということも含めた新しいドラマや舞台作品が生まれれば、とも思います。
堂園 日本は世界で唯一の被爆国ですが、一方でプルトニウムの一番の保有国なんだそうですね。原爆の数千個分とも言われているそうですが、そういった事実ももっと知らなければいけないと思います。これからは敵味方を超えて、戦争や原爆がどんな悲惨な結果を招くかということ、そのこと自体を訴えなければいけないですね。
湯川 最近では、例えば広島で80歳でも元気で生きている方がいるのは、逆に被爆したせいだとか、福島で子供たちの甲状腺がんがあれだけ増えていても、それは原発由来とは言えないという声を聞きます。でも私はそうしたことで争うのではなく、むしろ実際に起きた現実を、もう一回きちっと提示して、検証すべきじゃないかなと思いますね。
永井 少数のメディアで、きちんとドキュメンタリーで追っているものもありますね。
湯川 そうですね。でも、そこにもっと一般の関心が無い人も、想像力の翼を広げることができるような、悲惨な悲劇として見せるのではなく、もっとわかりやすく、「自分や友だちがこんな目にあったらいやだな」と思えるような、“ふくよか”なものにできるといいなあ……と思ったりもします。
永井 一時期、素人の方が『この子たちの夏』を上演していた時期がありました。構成・演出の木村光一さんが、映像、音楽、すべての演出のノウハウを提供するから、全国に広めて欲しいとまでおっしゃったんですね。去年、世田谷区に平和資料館がオープンしましたが、そこでアマチュアの方といっしょにやるのもいいのではないかと思っているんです。
湯川 高校生や大学生、若い演劇集団や読み聞かせをしている方々が、いろんな地域で、いろんなエネルギーとテイストでやられたら、伝わることがあるかもしれませんね。
私はときどき外国の方を広島の原爆資料館にお連れしますけれど、あそこはピカソの『ゲルニカ』どころではない強烈さがあります。思い切って原爆資料館にあるような鮮烈な写真を使うというやり方もあるかもしれませんね。
永井 写真のセレクトは非常にセンシティブな問題ですね。70年以上がたって変わってきたかもしれませんが、もう原爆のつらい記憶を思い出したくないという方々もいらっしゃるのだと思いますし……
堂園 先日のニュースで、長崎で被爆して黒こげになった少年のご遺族が、写真を見て「これは兄さんだ」とわかったそうですね。そういったこともありますし、ご遺族が傷つかないようなかたちで、起こった事実を伝えていくというのは大事でしょうね。
私は阪神淡路大震災のあと、これから生きていかなければならない方々のことを思ったとき、いてもたってもいられずにボランティア団体を立ち上げました。東日本大震災でも、いまだに行方不明の方々があったり、目を覆いたくなるようなご遺体と対面なさったご遺族がたくさんいます。この舞台を観ながら、いろいろな思いが重なりましてね……今日観てよかったと思いました。素晴らしかったし、湯川さんがおっしゃったようにさらにアイディアを出して、いまから広島・長崎のことを世界に発信したってかまわないと思いますね。
湯川 スミソニアン博物館では原爆展が開催されないままですが、70年たってやっと最近、アメリカでも小規模な展示会ができるようになってきてますから、むしろこれからかもしれないですね。
堂園 もう「誰がやった」というのはナシにして、「これをやってはいけない」ということに尽きますね。原爆はいけない。
言葉を繋ぎ、人を結ぶ
永井 何度か主催をやってきて、もっと日本にいらっしゃる外国人の方に広く観ていただきたくて、三年前から、公益財団法人JKAの補助をいただいて、ネイティヴの同時通訳に近いかたちで英語のイヤホンガイドもつけることができました。
湯川 私の両脇の外国人の方は英語があまりお達者ではなかったみたいで、イヤホンガイドだけではちょっと難しかったかもしれませんね。日本語でもそうですが、初めて『この子たちの夏』を観る人にとって、「言葉」が鮮烈に入ってこなかったら、その意味がキャッチできませんから、紙に書かれたものは必要だと思いますね。
永井 実はいつか『この子たちの夏』を海外で上演したいと思っていて、英語の台本もつくってあるんです。
堂園 今年の5月にオバマ大統領が広島を訪問しましたけれど、舞台を拝見しながら、いまこそアメリカにこの作品を上演する話をもっていってはどうかと思いました。
永井 昨年、文化学園大学から東南アジアの学生さんたちが『この子たちの夏』を観にきて、滂沱の涙を流していました。そういう方が10人のうち3人でもいてくれればと思って、これからも国内の若い人、それから海外の人にも向けてやり続けたいと思いますね。
堂園 私の友人に広島の被爆者の遺品を撮っている写真家の石内都さんがいます。今日の舞台にもたくさんの写真が使われていますが、亡くなった方々の遺されたものも、こういった形で生きているのだと思いました。
永井 『この子たちの夏』と同時期に石内さんの写真展をやっていただくのもいいですね。
堂園 今回は残念ながら伺えないけれど、ぜひよろしくということでした。ヒロシマはあってはならないことでしたけれど、今日、この対談は起こるべくして起こったと、そんな風に感じます。人と人とのネットワークで、この出会いが次に繋がれば、と思っています。
(2016年8月13日・公益財団法人せたがや文化財団会議室にて)
湯川れい子(ゆかわ・れいこ)
音楽評論家・作詞家。1960年、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」への投稿で、ジャズ評論家としてデビュー。ラジオDJ、ポップスの評論・解説などをしながら、エルヴィス・プレスリー、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどの大物ミュージシャンを取材。作詞家としては「涙の太陽」「ランナウェイ」「六本木心中」「恋におちて」「うまれてきてくれてありがとう」など数多くのヒット曲を手掛ける。近年はボランティア活動や環境省・文部科学省などの審議会委員も務めていた。
堂園凉子(どうぞの・りょうこ)
医師。1971年、慶應義塾大学医学部卒業。米南カリフォルニア大学医学部産婦人科研究員を経て、1984年、東京でインターナショナル・メディカル・クロッシング・オフィス開業。最新の西洋医学に漢方や鍼などの東洋医学を取り入れた治療と、カウンセリングに重きを置く。阪神淡路大震災「サポート神戸」、三宅島全島避難時「サポート三宅島ヤングスターズ」、「リメンバー神戸アンド東日本」(現・RKH Forever)を設立、災害復興ボランティアにも力を注ぐ。
構成・文/中島香菜
撮影/山田泰士