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『I Call My Brothers』参加者レポート


 
○『I Call My Brothers』戯曲読解ワークショップ
ファシリテーター:瀬戸山美咲
【日時・内容】
①9月8日(水)18:30~21:30 全体の読み合わせ、翻訳者・監修者によるレクチャー
②9月9日(木)18:30~21:30 シーンごとの読み合わせ
③9月11日(土)13:30~16:30 シーンごとの読み合わせ・ディスカッション
④9月12日(日)13:30~16:30 全体の読み合わせ、振り返り
 


ワールド・シアター・ラボ『I Call My Brothers』読解ワークショップ 参加レポート
ヘレンハルメ美穂

今回の『I Call My Brothers』読解ワークショップは、日本で取り上げられる機会の少ないスウェーデン語の戯曲が題材であり、しかも著者がスウェーデンの人気作家、個人的にもとても好きな作家でもあるヨーナス・ハッセン・ケミーリということで、こんなチャンスはめったにないと思い応募しました。その際にもちろん、「読解」ワークショップだということは理解していましたが、それでも翻訳者として過去に翻訳セミナーやワークショップに参加してきた経験から、原文と突き合わせながら「翻訳」を掘り下げていく形のワークショップを、無意識のうちに想像していたように思います。

ですが、初日に全体の読み合わせをしたことで、「読解」に焦点を当てるよう頭を切り替えることができました。実際に読んでみて、文字を見ただけではわからなかった戯曲世界の広がりを感じることができたからかもしれません。翻訳の済んだ日本語の戯曲を読む/演じることで、どういう解釈ができるのか、どんな世界が生まれるのか、そこに注目したいと自然に思えました。つい原語のテキストにこだわりたくなってしまうのが翻訳者の性で、その視点もちろん必要ではありますが、このワークショップはそこから視野を大きく広げる貴重な機会だったと思います。俳優や演出家の方々も参加されていて、さまざまな立場からの見方をうかがえたのも勉強になりましたし、そうして対話をして、そこからまた多様な解釈が生まれていくプロセスもまた、とても興味深く、意義深いものでした。

そして、そのプロセスは、このワークショップに限ったことではなく、さまざまな立場の人がかかわってはじめて実現する演劇というジャンルそのものの強みだ、とも感じました。読解の多重性が生まれ表現されるからこそ、演劇はおもしろいのではないか。そう考えると、翻訳者としては、原文に沿った“正しい”解釈を促すだけの翻訳よりも、たとえば文化の違いや俳優の個人的な経験などによって、まったくべつの解釈が生まれる可能性を残しておく、そんな翻訳ができたら理想的なのかもしれません。難しいことだと思いますが。

最後に、これは演劇の翻訳にかぎらず、自戒として思ったことですが、日々締め切りに追われつつ職業的に翻訳をしていると、小手先の技術で仕事を片付けてしまっている気がすることがときおりあります。じっくり腰を据えて(できれば人と対話しつつ)テキストを読解することの重要性も、今回あらためて実感しました。

たいへん貴重な機会をいただき、ありがとうございました。学んだことはぜひ、今後の活動に生かしていきたいと思っております。
 


『I Call My Brothers』 戯曲読解WSに参加して思ったこと  
浜野まどか
 
日本で一つの戯曲について、話し合ったりすることはあまりないと思う。稽古の初期段階に1週間集中して、戯曲を読むことはある。しかし、みんなで戯曲解釈をしよう。という演出家をあまり知らない。

なぜ日本の演劇の現場では、戯曲解釈の時間が定着していないのか。特に翻訳の作品なんて、読んでも読んでも全容がなかなか見えてこず、疑問しかない状態から始まる事が多い。歴史や文化、宗教や暮らし方。考え方だって違う。翻訳された台詞だって、原文はどうなっているのかが気になってしまうくらいだ。翻訳された言葉に違和感を感じたまま声に出した時の、自分が日本人以外の何者でもない感じを曝け出した時の恥ずかしさは、翻訳劇をやったことのある俳優であればみんなが通る道だと思う。 そもそも、演出家と俳優はフラットな関係であるはずなのに、なぜ演出家が偉いような雰囲気が演劇界には漂っているのであろうか? もしかして、全てを掌握していなければ、演出家としての威厳を保てないと思っているのではないか? とか、そんな意地の悪いことまで考えてしまった。そんな中で、今回のファシリテーターの瀬戸山美咲さんの現場は、俳優も演出家も制作も誰もがフラットに作品について感じたことを話せる数少ない現場だと思う。
 
一人一人が戯曲について考えていれば、それで良いと言う考え方もあるのかも知れないが、作品の世界をもっと深く理解するには、作品に関わる人たち全体で話して、共有して、考えて、想像することが不可欠だと思う。日本人は、議論することに慣れていないこともある、違う意見を出された時に、否定された……と思う気持ちが話さない事に繋がってしまうこともある。議論をうまくまとめていく技術も必要で、そこが難しかったりする。間違いに対してもとても敏感だとも思う。でも、人間だから間違えるし、意見が食い違ったとしても諦めずにお互いの話を聞く事、話す事ができるのであれば、新たな解釈に結びついていくかも知れない。その作業こそが、演劇を作る意義と可能性なのではないかと思った。

もし、戯曲解釈をする時間を削ってまで稽古の効率を重視しなければいけないのであれば、今後日本の演劇界でおもしろい作品なんて生まれないのではないかと思ってしまうくらいだ。
 
今回の戯曲解釈WSでは、演出家・俳優・翻訳家・介護職員・スウェーデン在住の方々とオンラインで職業関係なく戯曲を声に出して読み、気になった事や感じた事、わからない事をみんなで話し合いながら進めていった。いつもなら演出家と俳優でおこなわれている作業だが、色々な立場の人が増えると、戯曲の解釈がさらに深くなり、隠された言葉や感情が毛細血管のように広がってどんどん血の通った登場人物と戯曲になっていくのを感じた。
 
今後演劇の稽古場に、演劇の関係者以外の第三者の存在が稽古場にいてくれたら、もっと創作活動の幅が広がっていくのではないか。 初日が開くまで稽古場は閉じられた場だが、オープンにし創作過程を観せていく。そして、第三者が観てどう感じるのか? その声を聞くことが、演劇を作っていく上ではとても重要な、声にならない声を拾い上げていくことに繋がっていくのではないかと思った。
 
戯曲の解釈は物事を多方面からみる練習になる。 海外で何が起きているのかを、テレビやラジオSNSで知り、さらに海外の戯曲を読んだり観劇して登場人物の誰かに自分自身の姿を重ねていくことで、もっと自分ごとのように今起こっていることの本質を想像したり考えたりできるのではないか?

戯曲解釈は、人との関係が複雑に思えてしまう現代にこそとても重要な作業だと思った。今回の『I Call My Brothers』を読んで、高校生の時にアメリカで経験した、自分は白人以外の差別対象である、アジア人であることに気付いた時のことを思い出した。コロナ禍で、アメリカで起こったBlack Lives Matterや、アジア人への暴行映像を見て、黒人だけでなくアジア人である私たちも差別の対象であると自分ごととして受け止める日本人が増えてきたのではないかと思う。

そして、入国管理局での外国人へ対しての不当な扱いや、外国人技能実習制度の悪用、未だに難民認定数は少ないまま、「日本人以外の人」をうまく受け入れられない私たち。『I Call My Brothers』を読んでいると、数年後の新聞の記事は「日本人」と「日本人以外の人」との問題ばかりになってくるのではと思えてきた。言葉も文化も宗教も違う「日本人以外の人」と一緒に生活していく未来が確実に近づいている。イスラム教徒、在日、女、若者とか、そんな大雑把なラベリングではなく、個人として相手と向き合う力を戯曲解釈は与えてくれると信じている。
 


川口真実

スウェーデンの移民が抱える問題を知らずに初めてこの戯曲を読んだ時、私には主人公のアムールはただ被害妄想が強い人物に思えて共感しきれずにいました。一人で一読しただけでは空想と現実の判断が難しい箇所もあり、難解な作品にも思えました。

しかし、ワークショップで作者が司法長官に宛てた手紙やこの戯曲と同じタイトルの新聞記事を読んだり、参加者の中にいらっしゃったスウェーデン在住の方のお話を伺ったりすることで、スウェーデンについて学び、より深く戯曲を読んでいくことができ、アムールに対する印象も変わりました。確かにアムールは被害妄想が強いという側面もあるかもしれません。ですが、スウェーデンではスウェーデン人らしくない見た目をしているという理由で怪しまれることもある国だと考えると、アムールの考えは完全に独りよがりというわけでなく、環境のせいで被害妄想もせざるを得なくなってしまったのだということに気付かされました。アムールの苦しみを思うと、心が痛むようになりました。

また、ワークショップでは参加者に役が割り当てられ、台詞を音読していくという形で進められましたが、音で台詞を聞くことにより、より登場人物の心情がイメージできるようになりました。特にアムールを担当された俳優さんたちの朗読には臨場感が込められていて、アムールの苦しみがより鮮明に伝わってきました。私もいくつかを担当しましたが、他の方と一緒になって読むことで、より戯曲の中に入り込んでいける気がしました。音読の後には、それぞれの解釈に関する意見交換がありましたが、私と違う解釈をされている方のお話を聞くことで、より自分の解釈も広がりました。こういう音読と意見交換こそワークショップの醍醐味だと思います。

解釈の話の最中には翻訳に関することも出てきました。たとえば、brotherという単語はほぼすべて「仲間」と訳されていますが、とあるシーンの台詞は「兄弟」という意味ではないかという指摘が出ました。このような議論は、翻訳者として興味深いものでした。結局は、指摘のあった箇所は「仲間」という意味で間違いでないということに落ち着きましたが、議論を通して一単語であっても人によっては解釈が分かれるという翻訳の難しさに気付かされました。ですが、海外の素晴らしい作品に触れ、その素晴らしさを私も伝えられたらと思ったので、機会があれば戯曲の翻訳に携わりたいとも改めて思いました。
 


ワールド・シアター・ラボ『I Call My Brothers』戯曲読解ワークショップに参加して
大西智子

まずこんなに素晴らしい戯曲に出会えたことに、とても感謝しています。
私の微々たるスウェーデンに関する知識でちゃんと読めるのだろうかという心配は見事に消え、読み終わったときに「ウワー!」と走り出したい気持ちになりました。心臓をつかまれるような魅力的な戯曲でした。そしてスウェーデンのことを知りたいと思いました。移民がとても多い国であることも、私は恥ずかしながら初めて知りました。私は移民になったこともなく、日本で移民の方と知り合ったこともありません。でも主人公の生きにくさ・孤独感・自暴自棄になる気持ち・稚拙さ・どれも私にも共感できるところがありました。戯曲とは今を描く力があるのだと強く感じます。今生きている人間が生きている人の前で喋り演じる為の言葉だからでしょうか。演劇に興味のない人にも読んでもらいたいです。(小説のように、もっと一般的に読まれるといいのですが……)

そしてこの戯曲を今回の参加メンバーで読むことができ、とても多くのことを得られました。演劇とは違うジャンルで活動されている方、スウェーデン在住の方の自分では気づかない視点からの意見を聞けたこと、それによって自分の中にこれまでと違った考えや感じ方が生じたこと、ドキドキするような体験でした。日本で演劇活動をされている方達のお話をじっくり聞けることも刺激的でした。それは演劇の稽古場でもっとあるべき話し合いなのに、私はこれまであまりしてこなかったことでした。稽古場で読み合わせをしても、戯曲解釈について意見を言い合うことは少なく「個人それぞれで考えること」のように思ったり、作家に直接聞いてはいけないように思いこんでいたかもしれません。なんともったいないことをしてきたんだと自分にがっかりしています。他の人の違う意見を聞くことは自分が広がるということだと思いました。(後藤さんや小牧さんが直接分からないことを作家のケミーリさんに聞いたという話はなんて素敵なんだ!と思いました。)

今回、翻訳戯曲の読解ということで、一つの言葉が持つ可能性にどんどん皆さんの想像が刺激され、出てくる意見も楽しい発見ばかりでした。一つの国の言語が持つバックボーンの奥深さに驚きました。言葉の背負った意味合いが国によって違うこと、その違いを知ることはお互いを知ることにもなるのではないかと思いました。

今後も現代の外国戯曲をもっと読みたいと思います。いろんな国の作品を読みたいのでさらなる翻訳をとても楽しみにしております。そしてまたこのようなワークショップの開催を願っております。今回は参加させていただき本当にありがとうございました。今後の活動に生かしていけるよう頑張ります。
 


『I Call My Brothers』海外戯曲読解WSを終えて
内田健介

この度はこのワークショップに参加する機会を頂き、ありがとうございました。
コロナ禍の為リモートでの開催となりましたが、参加の皆様全員がご自身の意見を遠慮なく言えたのかが少し気になるところではあります。もし私が話し過ぎてしまっていたとしたらごめんなさい。いつもの演劇の稽古場だと、基本的には演出家と俳優、作家、場合によっては翻訳家、プロデューサーといった顔ぶれで戯曲読解について話し合う事がほとんどですが、今回は学生の方や翻訳家を目指していらっしゃる方、スウェーデン在住の翻訳家の方などもいらして、いつもと違った視点でのお話も聞くことができて、大変面白い経験をさせて頂きました。オンラインならではの良さもあったと思います。こうして何人かのアタマで戯曲を読むという事で再発見したり、違う視点を持てたり、自身の誤読に気が付いたりする経験はやはり大切な事だと再認識しました。
 
今回の作品『I Call My Brothers』も大変に興味深い面白い作品でした。差別と偏見、レイシズム、そして、テロ。今なお、世界中で問題となっている事が描かれていて、今のアフガニスタンの事、コロナ禍でのアジア人へのバッシング等、考えさせられる事がたくさんありました。”差別はしてはいけない“”テロ、暴力に訴えてはいけない”という一元的な啓蒙演劇ではなく、差別され偏見に満ちた目で見られて、不当な扱いをされ、テロを起こしてしまうかもしれないという状態にまで追い込まれてしまう1人の男性の頭の中に一緒に入って、観客自身が体感体験してみようという演劇で、その存在価値はとても大きいと思います。
 
差別する側にもされる側にも立つ可能性のある我々日本人にとっても他人事ではない重要な作品だと思いました。かつて関東大震災の後に、何のいわれもない朝鮮人を大量虐殺してしまった事件のように、普段身を潜めてあたかも無いかのように見えるレイシズムや人種差別主義が水面化で人々の心の中に入り込んでしまっている恐ろしさ、何か起こった時にそれが一気に噴出するのではないかと考えると怖くなります。

湾岸戦争、9.11、アルカイダ、タリバン、IS、アフガン紛争、グアンタナモ強制収容所、自衛隊非戦闘地域派遣、名古屋入管ウイシュマさん死亡事件、在特会、ヘイトスピーチ……。差別、偏見、暴力、紛争、負の連鎖はいつ断ち切ることができるのでしょう。そして、自爆テロと無人ステルス戦闘機による空爆、一体どちらが卑劣なのかという問いに答えはありません。しかし、この戯曲の素晴らしいところは、テロを題材にしながら、こういった政治的なバイアスを極力排除して、1人のスウェーデンに住む若者の頭の中に入り込み、彼の持つ偏見、彼が感じる偏見、周りからそう見られているのではないかという圧力、失恋、父との確執、仲間、友達との関係、被害妄想、その中から僕もテロリストになってしまうかもしれないという世界を紡ぎ出しているところです。その為、観客がどの国のどの宗教の方でも、彼の頭の中に抵抗なく入っていける可能性が広がっています。ここがとても素晴らしいと感じました。演劇にしかできない、とても上演する価値の高い戯曲だと思います。

ITIの掲げる「戦争の反省から演劇を通じて平和の砦を築かねばならない」という理念にも通じるものがあると感じました。この理念、本当に素晴らしいと思います。そして、僕も演劇にはその力があると信じている1人です。

今回のワークショップで思った事をもう一つ書いて終わります。わからないことを不確定要素としておいておくことも、戯曲読解においてはとても重要な事だと感じました。その場で結論として決定する事を急がず、その他の可能性についても思いを馳せてみる。その事によって作品をより深く、豊かに読む事ができる気がします。正解などないし、逆に幾つでもあるし、作家の手を離れたら、こちら側は読解という次のクリエーションに入っていると考える事もできると思います。

俳優に求められる読解力とは、所謂正解を読み解く国語力に基づいたしっかりした読解の先に、その人にしかできない個性的で且つ面白い、作家が書いたものを超えていけるような素晴らしい誤読ができるかどうかという事のような気がしています。

ありがとうございました。
 


ワールド・シアター・ラボ 『I Call My Brothers』 戯曲読解W.S.を終えて
(匿名)

・この戯曲は登場人物の行動を通して、観客が「体験する」、「思考する」ことを目論んで書かれていると感じました。

・鋭いと同時に懐の深さを感じさせる作品だと思います。対立や戦いを描いてはいるのですが、「相手、あるいは自分ではない誰かの立場に立ってみる」視点を感じます。そこにユーモアがあります。いただいた二つの資料に触れることができたので尚更そう感じるのかもしれません。

・作者が最も恐れていることは世の中(あらゆる時代と場所の人間社会)の「不寛容」と「無関心」だと思いました。コロナ禍ということを含めた現在の日本のことを思いました。

・翻訳作業の苦労や面白さに触れることができた気がします。すごくいい経験になりました。全ての翻訳者の方と翻訳作業への尊敬が増しました。

・否定がなく、様々な意見や感想を受け入れられる場が、気持ちが良く、皆さんの考えがとても刺激的でした。続いて欲しい企画ですし、是非また参加したいと思いました。

・今回この戯曲を読んで、ワークショップを体験して「偏見の対義語は想像力。差別の対義語は想像力。無関心の対義語も想像力。」だと思いました。