吉岩 セントルイス・バレエの芸術監督に就任された経緯を教えていただけますか?
堀内 ぼくが芸術監督になる前、知人がセントルイスの芸術監督をしていたころに、所属ダンサーが怪我をしてしまったんです。当時のバレエ団はすごく小さかったし、ダンサーもそんなにいなくて、ニューヨークで代わりのダンサーを探していたのです。それで「今週なんだけど、行ってもらえない?」と声がかかったんです。
セントルイスって、夜景もきれいだし、野球が強い。ぼく、野球がすごく好きなものですから、当時、マーク・マグワイヤって、ホームランをいっぱい打っているヤツがいたんで、そいつがいる町なら行こう!なんて言って行ったんです(笑)。二週間いたんだけど、すごく楽しかった。
当時のセントルイス・バレエって、まだすごく小さなバレエ団で、ダンサーは12人~13くらいしかいなかったんです。みんなに気にいってもらえたみたいで、夏期講習に呼んでくれたんです。教え方を気に入ってもらえて、何年間か毎年、夏に教えに行っていました。
ニューヨークに戻ってからはブロードウェイで『キャッツ』をやって、ロンドンでも8か月くらい『キャッツ』をやらせていただいて、またニューヨークに戻ったらセントルイスから電話があって。前任の芸術監督のリュドミラさんの訃報でした。彼女、まだ54歳くらいだったと思います。若かったんです。びっくりしました。しかも、彼女が亡くなったことで、団員も生徒さんたちもどんどんセントルイスを離れていってしまったというんです。それで、一度セントルイスに現状を見に来てほしいと。
それでセントルイスへ行ったら電話のはなしのとおりで、団員はどんどん辞めていってしまっているし、150人くらいいた生徒も、40人くらいに減っている。ここで、前からいたセントルイスの理事たちから、どうしてもここに来てほしい、立て直してほしいと言われたんです。
当時、ぼくはいろいろな舞台で踊っていて、ミュージカルもやりたかったのだけど、ニューヨーク・シティ・バレエも辞めていたし、自分のバレエ団・バレエ学校を育てるのもいい機会だなと思って引き受けました。失敗したらニューヨークの『キャッツ』でもどこでも、帰るところはあるから大丈夫だ、と(笑)。
吉岩 どのようにセントルイスを立て直したのですか?
堀内 いま、セントルイス・バレエはダンサーの数が28名、生徒数が350名ですが、これに至るのは10年かかりました。
立て直しには、ニューヨーク・シティ・バレエでの経験が大きいです。
ジョージ・バランシンが亡くなって、そのあとを、当時弱冠35歳くらいだったダンサーのピーター・マーティンスが引き継いだんです。団員が100名、年間200公演くらいするバレエ団を彼が経営する姿を、ぼくは間近で見ていました。休みの日になると、彼は支援者たちと食事をしたりして、バレエ団の状況をしっかり説明して、お金をもらっていました。それからマーケティング。宣伝写真をとるために彼についてニューヨークの街中に出て踊ったりしながら「ああ、バレエってこうやって切符を売らなくちゃいけないんだな、とか、こうやってお金を集めなきゃいけないんだな」とわかりました。
テーブルが20個くらいある広い会場で支援者を集めたパーティをするときには、テーブルを回ってバレエ団の説明をさせられました。年間の公演数とか、バレエ団の特徴とか歴史とか、いろいろ……。こんなことをやっているうちに、バレエ団を経営するのって面白いだろうな、と思うようになりました。ぼくもいつかやってみたい、と。
それで、セントルイスでは――規模はずいぶん違いますが――ニューヨークでやったようにやってみたんです。みようみまねの部分はありましたが、支援者を集めて懇談会みたいなのをやってみたり、しっかりしたプログラムを作って宣伝したり。
それから、これはバランシンに教わったことですが「もしもバレエ団をつくりたいのなら、まず学校をつくれ」。これは名言だと思います。まずバレエ学校をつくって、生徒をいっぱい集めて、お金を取って、しっかりとしたスタジオを確保して、そのスタジオでバレエをつくっていく。そういうベースがないと、バレエ団はできない。
そういう教えもあったものですから、自分でお金を出してバレエ学校をつくりなおしたんです。当時のバレエ学校を壊して、場所も住宅街のなかに移して――東京でいうとたまプラーザみたいなところ――ちっちゃな子どもたちがいるところに移して、子どもたちを集めました。
クラスも、前は6歳からだったのですが、「ママと一緒 Mummy and Me」という2歳半からのクラスをつくりました。昔、バレエ団で働いていたひとたちを戻して、先生として雇って、根を広げました。生徒の数は200人、250人……という感じで増えて、このお金で事務を雇い、広報をしました。とにかく、まずはマネジメントから立て直しました。それからバレエダンサーを集めて、セットを借りて、バレエをやりました。だいじなのは順番です。
吉岩 助成金はあったのですか? 公的なものでも、私的なものでも。
堀内 ぼくがはじめたときは、市からも州からもお金がまったく出なかったんです。ゼロです。一年目にぼくが申請したら却下されて、くやしくて。ニューヨーク・シティ・バレエというのはアメリカでいちばん大きなバレエ団ですから、ここでプリンシパルを務めたというのは、アメリカではある意味で立派な肩書きなんです。それなのに、まったくセントルイスでは通用しなかった。「申請したのがだれであろうが関係ない、おまえは一年目でまったく経験がない」といわれてしまったんです。これがくやしくてたまりませんでした。
「泥をかぶれ」ですよね。新しい地に行ったら泥をかぶれ。自分の過去に従わず、とにかく泥をかぶろうと思いました。当時は踊るのもやめました。一日3~4クラス、とにかく教えました。経営のことだけをやって、双子のきょうだいの充【じゅう】からも「おまえ、踊れよ!」っていわれるほど。お客さんが来てくれるのを想像するとかじゃなくて、無になって、日本からもお金を借りたりして(笑)。助けてくれる人もまわりにいました。助けてもらったら、お礼をする。しっかりしたマネジメントをやらないといけないな、と感じていました。
吉岩 『くるみ割り人形』がユニークで大成功だったと聞きましたが。
堀内 クリスマスの時期ってアメリカのひとたちにとっては特別でしょ。家族でなにかを観に行くっていう意識がすごくある。『クリスマス・キャロル』とか『くるみ割り人形』とか。だから、セントルイスの特別なクリスマスの作品みたいなのをつくろうと思って。
『くるみ割り人形』ってほんとうはドイツのお話なのだけど、ぼくは設定をセントルイスにしたんです。振付はオーソドックスなんですけど、設定を変えました。セントルイスにはフォレスト・パークという有名な公園があって、ここのそばの一軒家――当時の市長さんのおうち(笑)――で起こるストーリーっていう設定にしたんです。そうしたら、みんな気に入ってくれたみたいですね。それだけの話なんですけど、お客さまのニーズを考えてやっています。
吉岩 『キャッツ』などのミュージカルにもご出演ですが、バレエダンサーがミュージカルに出るということはよくあるのでしょうか?
堀内 ニューヨーク・シティ・バレエでは、ありました。クリストファー・ダンボアのお父さま、ジャック・ダンボアは当時のすごく有名なバレエダンサーですが、映画のミュージカルなどに出ていましたし、同じく当時のスターダンサー、エドワード・ビレラもブロードウェイやストレート・プレイにも出ていました。ジョージ・バランシンと並ぶ「バレエの演出家」のジェローム・ロビンスは『ウェスト・サイド・ストーリー』とか『屋根の上のバイオリン弾き』『王様と私』などのミュージカルを手掛けた演出家です。だからぼくも、バレエをやりながらいつかはミュージカルをやりたいと思っていました。
18歳のころ、僕がニューヨーク・シティ・バレエで『星条旗よ、永遠なれ』を踊ったとき、振付家のジリアンから「ブロードウェイの『キャッツ』に出てほしい」と言われました。この『キャッツ』には、ウェイン・スリープというロイヤル・バレエのプリンシパルが出ていました。ぼくのディレクターのピーター・マーティンスから「きみはまだニューヨーク・シティ・バレエに入ったばっかりだから『キャッツ』に出ちゃダメ」と言われて、結局出られなかったんですけど(笑)。そのあと、アンドリュー・ロイド・ウェーバーのミュージカル『ソング&ダンス』に出ないかとスカウトされました。『ソング&ダンス』はピーターが振付をやっていたので、出ることができて、これがぼくのミュージカル・デビューになりました。それで一年間ミュージカルに出て、ニューヨーク・シティ・バレエに戻ったらまた『キャッツ』からオファーが来て――初演から5~6年経っていたんですが――ピーターからもゴーサインが出たので、出させていただいて。これがぼくのミュージカルとのかかわりです。
吉岩 日本での活動について教えてください。
堀内 ここ5年間、兵庫県立芸術文化センターに主催していただいて毎年、「堀内元バレエUSA」というのをやっています。
セントルイスでつくった作品もだいぶ増えたので、日本のお客さまにも観てもらいたいな、という気持ちはありました。だけどセントルイスはまだまだ小さなバレエ団だし、財力もないので、まるまる持ってくることができずにいたんです。そこで、ぼくがつくった作品を日本人のダンサーに踊ってもらって、日本人の優秀な照明や音響の方々と一緒にすばらしい劇場で公演できればと考えて実現したのがこの企画です。
一昨年から吉田都さんにも公演に出ていただくようになりました。彼女のことは中学生のころからずっと知っていました。ローザンヌで賞をとったあと、ぼくはニューヨークに行って彼女はロンドンに行き、ぼくは何度もロンドンに足を運んで彼女のすばらしい舞台を観ていました。
セントルイスに行くとき、都さんには「いつか、大きくなったら絶対招待してあげるからね。ゲストで踊って!」なんて言っていました(笑)。当時は4~5年くらいで実現するかと思っていたんだけど、結局、呼べたのは、ぼくがセントルイスをはじめて9年後でした。都さんがまだロイヤル・バレエにいたころです。それから3回くらい、セントルイスで踊っていただいていますが、日本でも、一昨年から一緒に踊るようになりました。今年は「Ballet For the Future」という企画で、東京と金沢で公演があります。私の作品を都さんに踊ってもらうという……自分としては、夢が実現したみたいな企画です。
吉岩 これから海外で活躍したい、勉強したいと思っている若い人へのメッセージをお願いします。
堀内 どんどん外へ出て行ってほしいと思っています。でも、近道はありません。
いまはインターネットとかで、海外で何が起きているかが瞬時でわかるでしょ? どこで、どんなプログラムで、だれが踊っているかもわかるし、どこの政治がどうなっているのかもわかる。Facebookではかたちだけの友だちにもなれちゃうし。でも、実際に行ってみると、そこの社会に溶け込むということはものすごく大変なことなんです。
実際に、日本人の方たちが大学に留学したりしても、結局日本人のグループで集まって終わりなんですよね。日本人の提供する情報によって生活をして、アメリカ人と溶け込んで生活をする機会が全然ない。アメリカはとくに顕著なんです。ブラック・アメリカンのひととコケイジャンのひとたち、ヒスパニックのひとたちが一緒になって生活しているという意識をお持ちの方も多いと思いますが、じっさいはまだまだグループで行動しているんですよ。だから、自分たちがそのなかに溶け込んでいくというのはとても大変なことです。
「泥をかぶる」じゃないけれど、とにかく自分から電話をして、自分からメールをして、自分から食事に誘って……というふうに溶け込んでいってはじめて海外の「生活」というのができるんですね。とくにバレエとか、西洋芸術というのは、そういう仲間のなかで勉強することによって深さがわかってくると思うんです。
逆にいうと、ぼくがいまやろうとしているフランチャイズ的なことって、イージーなことでもあるんです。たとえば、ドイツのひとが振付けたものを日本人だけでやってみて、それをドイツのひとたちが来て観るとか。それで世界のバレエがわかったと思いがちなんですね。「これで日本は世界の仲間入りをしたんだ」と思っているひとたちがいるんだけど、それは大間違いなんです。たとえば、だれかが歌舞伎をアメリカで育てようとしたとします。それも、横に長い劇場じゃなくて、オペラ劇場みたいなところで、しかも飲み食いできないところでやろうとしたとします。それは本来の歌舞伎の芸術じゃないですよね。上演時間が長くて、お客さんが出たり入ったりする、これが歌舞伎ですよね。しきたりがまったく違う。
日本のバレエの世界ではこれが行われているんです。「日本も世界水準になった」とか、そういうことを言っているのはものすごく間違っていることだと思うんです。みんなが外へ行って、たとえばロイヤル・バレエの一員になって、コヴェントガーデンの楽屋を行ったり来たりして――闊歩【かっぽ】して――お客さまたちに拍手されて、それではじめて「アーティスト」になれるんです。それをただお客さんとして観て、観たものを日本の劇場で演って、帰りにラーメン食べて帰るっていうのは、ぜったいそれはバレリーナじゃない!(笑)それをぼくはいま、言いたいですね。
段階があると思います。まず、自分でお金を払って留学して社会に溶け込むという第一段階がある。そこのひとたちからお金をもらって自分がそこで生活を立てるというのが第二段階。そこまでいけば、まだいいほうなんですよ。究極は、留学先の海外で自分でビジネスを起こし、自分でお金を稼いで、現地のひとたちにお金を与えること。そこまで行き着く人間が、日本人には少なすぎる。
吉岩 セントルイス・バレエにいるのはアメリカ人だけですか?
堀内 いま、ヨーロッパからひとり来ていて、その前にはメキシコからもきていました。あとは日本人の女の子がひとりいます。
吉岩 オーディションは?
堀内 年に150~200人くらいの応募があります。そのなかから、書類審査で20~30名にしぼりこんで、毎年2~3名くらいを取ります。バレエ団を辞めたひとのポストを補うためのオーディションなので。大きなカンパニーなら、1000人や2000人は応募があるでしょう。
吉岩 所属ダンサーには給料とか、あるのですか?
堀内 週給制です。なんとか生活できるくらいのお金は支給しています。きちんと生活をして、レッスンとかもしてほしいし、リハーサルをして、しっかりした作品をつくりたいので。いま、一番安いお給料で週にだいたい450ドルくらい。日本円にすれば週に5万円くらいでしょうか。一か月で20万円になるかならないかくらいですね。もっと大きなバレエ団ならもっとあげられるのでしょうが、われわれはこれくらいが限度です。
ぼくがいたニューヨーク・シティ・バレエだとか、サンフランシスコ・バレエは、最低でもぼくが支給できる2~3倍はあると思います。しっかりとした額のお給料を支払うことは、いまにはじまったことじゃありません。40年か50年前からずっと、こういうことをやっているんです。彼らにしてみればこれがあたりまえのことであり、これがビジネスとして成り立たせる最低限の条件なんです。